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学ぶ印刷
こんにちは、東京紙器です。
今年2025年は明治何年にあたるでしょうか。突然こう問われて回答できる人はなかなかいないでしょう。明治維新は1868年ですので、今年は明治158年となります。明治時代は明治45年まで続きました。約半世紀に及ぶこの時代に、近代国家としての日本が形作られ、国際的地位が確立されたわけです。
社会全体が劇的に変化した大変革の時代、印刷・出版文化も大きな発達をとげていきます。しかし明治時代に西洋技術が入ってきたことで突然印刷や出版産業が誕生したわけではありません。それは奈良時代から脈々と紡がれてきた日本における印刷・出版文化、技術の継承の先にありました。
学ぶ印刷第4回は、文明開化によって大きく発展した近代印刷史について簡単に紹介していきます。
近代社会設立に不可欠だった印刷
銅版印刷の「再導入」と石版印刷技術の導入

『二十圓硬貨 明治三年』出典:As6022014, Wikimedia Commons より/ライセンス:CC BY 3.0
戊辰戦争を経て成立した明治新政府には課題が山積みでした。行政、立法、司法、軍事、身分制度、経済産業、教育、外交などすべての面で改革が必要であり、現代社会でもよく政治で使われる「改革」とはけた違いの変化はもはや「革命」といえました。金融の分野でも貨幣制度が改められ、「円」が誕生しましたが、その普及のためには紙幣を刷る必要があります。他にも様々な証券、切手、地券など産業ベースの印刷物需要が爆発的に増えたため、印刷量はもちろんのこと、高い信用性が求められることとなりましたが、これは江戸時代までの木版印刷技術では難しいことでした。

『司馬江漢 不忍之池』出典:ColBase(詳細)
そこで活用されるようになったのが「銅版印刷」です。これは銅板をエングレービングしたり、酸で腐食させるエッチング技法などで図版を作り上げ、その銅版をもちいて印刷する方法のことです。銅版印刷は最終的に電気鋳造によるエルハート凸版技法によって、大量生産と品質を兼ね備えていきます。もともと銅版印刷自体は16世紀末ごろに伝来していたのですが、江戸時代に一部この技法が用いられたケースを除いてほとんど定着することはありませんでした。(江戸時代の司馬江漢による各種「めがね絵」や、亜欧堂田善による「江戸名所風景銅版画」などが有名)しかし銅版印刷には木版以上に精緻な表現ができることが明治新政府に注目され、この技法を使って積極的に紙幣や証券などが刷られることとなりました。
銅版印刷に続いて「石版印刷」(リトグラフィ)が登場します。平らな石の版の上に図柄を筆やクレヨンにて自由に描き、水と油の反発作用によって転写させる、18世紀末にドイツで発明された新しい技法でした。ほかの方法に比べると複雑で時間もかかるのですが、画期的なのは版を彫る必要がない点で、さらに階調表現にも優れていました。
この技法によってより写実的な表現が可能となり、いわゆる「開化絵」と呼ばれる近代発展を遂げる東京の情景を描いた各種印刷物の流行に一役買い、世に新時代のイメージを広げる役割を果たしました。
活版印刷の復活と普及
活字を組み上げて印刷する活版印刷は、明治時代以前に伝来していましたが、日本語の文字数の問題、鋳造活字の問題、木版印刷の発達などがあり、日本ではそれほど普及していませんでした。明治維新前後、近代活版印刷の祖ともいわれる本木昌造が活版印刷に再度陽の目を当てることとなります。
彼は長崎に生まれ、代々オランダ通訳を務めた家に養子となり10代半ばで通訳となるなど海外情勢に精通した人物へと成長します。そしてオランダによって持ち込まれた活版印刷機を購入し、活字版摺立所を開設します。彼はそこで徐々に活字の研究を続け、明治2年、活版伝習所を設立、電胎法を習得するなど、近代活版印刷を本格的に始動させます。

『秋季始業尋常小學讀本』出典:「学校基本調査」(文部科学省)詳細 (2025年6月17日に利用)
明治政府は国語の標準化政策に取り組む中、明治33年にひらがなを標準化、カタカナの合字、実用的活字整備など、以前活版印刷で課題となった文字数を減らす工夫を行いました。このような流れの中、本木昌造も日本語書体の開発を進め、明朝体を活字に採用したり、オリジナルの楷書・行書漢字の作成を行っています。
彼の弟子である平野富二は、神田に活版製造所を開設し、徐々に事業として活版印刷を軌道にのせ、産業として発展させていくこととなりました。平野は後に造船業にも進出、石川島平野造船所、現在のIHIを設立して重工業発展の礎も築いた人物です。彼らの活躍と、時代の要望に応えた活版印刷は近代産業としての印刷を支えていきました。

Samuel Smiles [著] ほか『改正西国立志編 : 原名自助論』,博文館,1916.10. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2025-06-17)
活版印刷の興隆のなか、平野の活版製造所とともに印刷界を牽引したのが、元彰義隊であった佐久間貞一が起こした秀英舎です。木版本として出版された「西国立志伝」を活版印刷で洋装本として再版した「改正西国立志伝」がヒットし、会社の経営は軌道に乗っていきます。
この本は福沢諭吉の「学問のすゝめ」とともに明治時代の若者から多くの支持を集め、日本のその後の発展に大きな影響を与えました。
この秀英舎は昭和10年(1935年)、日清印刷と合併し、社名を「大日本印刷株式会社」へと変え、今日まで続く日本印刷業の巨頭として業界を牽引していくことになります。
新聞の誕生と技術革新
明治2年に新聞紙印行条例が発布され、規制が解かれて正式に新聞発行が認められるようになると、様々な新聞が創刊されていきました。各紙は最初、木版刷りなども使っていましたが、徐々に活字による印刷へと移行していきます。新聞は時事を扱うものなので、素早く印刷する必要があったため、版木を彫らなければならない木版印刷よりも活字の組みかえだけで対応できる活版印刷が向いていました。
また新聞は文字が中心であったことも活版印刷が採用される大きな理由となります。挿絵などは木版、文字は活版を使い、組み合わせて刷ることも多く見られました。

『国民新聞 明治38年1月18日 号外』所蔵:東京大学デジタルアーカイブポータブル
加えて新聞の普及が一気に伸びたのは、日清戦争、日露戦争といった戦争報道でした。従来は論説が多かった新聞ですが、戦争の挿絵が入った戦争報道は多くの国民が関心を寄せたため、これを機に新聞内容は報道中心へと変化していきます。
新聞の需要は日増しに増大し、量産性が求められた活版印刷は技術革新が進んでいきます。蒸気機関を使った円圧印刷機(平版と紙を円筒でプレスするもの)や電胎法(蜜蝋による型に電気分解で銅を付着させる技法)による活字鋳造、輪転機(湾曲した版を円筒に取り付けた印刷機)の導入、原色版印刷とよばれる凸版カラー印刷方式の普及など枚挙に暇がありません。
こうした技術革新は大量印刷、迅速印刷を可能とし、マスコミュニケーションが進んでいきました。それにより「世論」が生まれ、その後の社会に大きな役割を果たしていきます。同時にそれを警戒する政府は徐々に言論統制を強めていき、さらには思想統制、そして昭和の戦争へとなだれこんでいくのです。
まとめ
明治時代の大きな社会変化、そして技術革新は印刷業界を産業として一気に発達させ、日本は急激に近代化していきました。江戸時代以前の豊かな出版文化と職人技術が基盤となって新たな印刷技術を素早く取り入れ、高い識字率を背景とした需要増大が更なる技術革新を生むという好循環が起こりました。
それにより約300年欧米に遅れていたといわれる活版印刷技術は、わずか20-30年で欧米水準に到達することとなり、明治末期にはもはや欧米先進国と比較しても遜色ない品質、特に新聞印刷分野では世界トップクラスの生産能力を持つに至ります。技術革新が可能とした大量印刷は新聞というマスメディアを勃興させ、日本の情報化と世論の成熟に大きな貢献を果たしていきます。言論の自由は大きなうねりとなって、帝国議会の設立をはじめとした民主政治の実現を強く求めていくこととなりました。
一方で政府はそのような下からの変化を好まず、徐々に圧力を強めて統制を試みていくことになります。明治時代の印刷いかがだったでしょうか。徐々に私たちが知る印刷に近づいてきましたね。
「学ぶ印刷」第5回は激動の大正時代、そして昭和の印刷について見ていきます。
それでは次回もお楽しみに。
“Ideaを形に。”
参考文献
印刷博物館編『日本印刷文化史』講談社 2020年
ウェブサイト 日本印刷産業連合会 印刷用語集 『円圧印刷機』ページ